美食家倶楽部活動日誌 その1
突然ではあるが、諸賢らは食事について、深く考えたことがあるだろうか。
食事を自発的に行うのが70年だとすると、人間というものはざっと75,000回もの膳に向かうこととなるのだ。私は現在25,000食近く、つまり人生においての食事の3分の1を消費していることとなる。
そのことを、後輩に諭されるまで、つまり、昔の私は正直、その場その場で、ただただ好きなものを、たらふく、貪り尽くし、空腹を満たすことだけが食事の楽しみであると、恥ずかしながら、そう思い、そう周りに断言していたのである。
そのことについては、今思い出しても、顔から火が、ガスバーナのように勢い良く、真っ青に顔中の血の気を引かせながら、噴き出るような思いなのであるが、そのようなことは今回の話にはあまり関係がない話である。
今回の話の舞台となるのは、私が先代の部長となった美食家倶楽部という我が大学が誇る裏サークルである。ちなみに、引退済みの私を含めて、現在の部員は3人しか居ない。
第一章:チキン南蛮定食( ¥545 )と日替わり定食( ¥472 )
*男視点
私は大学生である。理系である。四年生である。ただし、年齢は同級生よりも高い。
ゼミという名の、憎き教授とその腰巾着による公開処刑を、なんとか半殺しにされる程度にごまかそうと昨夜からずっと起きているため、我がまぶたの上と下は、初めて付き合った高校生カップルもかくならんや、とその仲を深め、私を夢へと叩き落とそうとしている。
そのかいあって、毎度毎度、どう料理してやろうか、といやらしい目をギラギラと輝かせているあの憎き奴らの地獄の鬼も裸足で逃げだすような口撃を、私が聞き流したり、反省したような体を取り繕ったりすることにより、なんとか今日も命からがら生き延びることが出来たのである。
正直なところ、早いうちに自室へと帰って眠ってしまいたい、という人間本来の、逆らい難き強い欲求に屈してしまっても良いのであるが、いかんせん、腹が減っている。空腹というものに対する食欲も、やはり逆らい難き欲求であり、その欲求に殉じることは、私のライフワークとも言うべきことであるのだ。
そういうことであるから、ゼミで頑張った自分へのご褒美とでも言うべきか、少しだけ今日の昼は豪勢な食事にしようと、2つある学生食堂のうち、高等なほうで食事を摂ろうとした。左手首に巻いた時計を見ると時刻は11時45分であり、もうしばらくすると講義の終わった奴らが大量になだれ込んでくる時間であった。
食堂のドアを開けると、少しお年を召されたお姉さま方々とアルバイトとして働いている女学生と思わしき人たちが出迎えてくれた。清く正しき理系エリートとしては、その笑顔の一つ一つに何かこみ上げるものを感じなくもないのだが、そんなことは気にした素振りを見せないよう努め、すでに8割ほど埋まっている食堂の、入ってすぐ左手2番目のテーブルに着席する。4人がけのテーブルの、勿論角(四人並ぶわけではないから当然であるが)に陣取り、一人で占拠できるというのは存分に気持ちがいいものだ。
学食とは思えないことに(と言っても学食を回ったり、といった殊勝な心がけはないのだが)注文を取りにくる形式のこの学食は定食メニューがかなり豊富である。今日は何を食べようか、机の上のメニューに視線を落としたときであった。
「先輩、ここ、相席いいですか」
顔を上げると、目の前には我が裏サークル、美食家倶楽部の3分の1、後輩が立っていた。記憶違いでなければ二回生であったはずである。
首肯だけで、是の意を伝えると、後輩は明らかにホッとした表情で、私の向かいの椅子を引き腰掛けた。
「今日の日替わり定食はチキンカツ定食なんですね」
メニューをじっと見つめながら、誰に言うでもなく、後輩は口にする。
くりくりした目が印象的で、何事にも一生懸命な彼女について、私は正直、好意を抱いている。と言っても、恋仲になりたい、と思っているわけでもなく、いや、なりたくないといったら嘘なのであるが、清く正しい理系学生としては、どういう風にアタックをすればいいのか、どこまでやれば、恋仲として楽しく過ごすことが出来るのか、その距離感を測ることが大切である、と真剣に考えているのである。適正な距離感さえわかれば、あとはそのまま何とかなるだろう、と思っている。断固として言うが、へたれているわけではない。
メニューを行ったり来たりする彼女を見つめていていたので、ウェイトレスのお姉さまが来ていることに気づかず、慌てた代償として、残念ながら、何も考えずにチキン南蛮定食、と口にしてしまっていたのだった。
*後輩視点
その日、私は二回生になって、前期の授業申請のために行ったコンピュータルームにいたのです。三回目とはいえ、操作自体はまだ良く分からないのですが、前もって授業を決めていたこともあり、案外すんなりと申請自体は終わりました。
時計を見ると11時40分、昼食を食べたい時間となっています。今日はいつもより早い時間に終われたので、久しぶりに2階食堂に行けるのではないでしょうか、という考えがふっと私の中に浮かんできたのです。
いつも講義が終わるのはおよそ12時くらいで、そのときにはすでに2階食堂は憎らしくも大盛況と言わざるを得ない状況で、美味しい食事に目がない私と致しましては、いつもいつも悔しく奥歯を軋ませていたのですが、久しぶりに、本当に久しぶりに、2階食堂に行こうと、足取り軽く向かったのでした。
すでに結構な人数が入っている2階食堂では、4人がけのテーブルのみを置いていますので、空いているときでないと、私自身としては一人で行きにくいものです。私が授業申請の為に早く終わったということは、私同様に早く終わった学生らが大挙して押し寄せるであろうことを、思慮浅きことに、予想出来ていなかったのです。ほとんどの席が埋まっている中で、ああ、なんとか座れそうなところはないだろうか、と探したところ、見覚えのある顔が一人でいるのを見つけたのです。
「先輩、ここ、相席いいですか」
メニューに目を向けていた先輩は、髪をぼさぼさに生やした姿で気だるそうな目で私を見ました。どうやら、また徹夜明けのようです。先輩は首を縦に振りました。どうやら今日も一人のようです。正直助かりました。
先輩の真ん前の椅子を引き、横の椅子に持っていたトートバッグを置きました。先輩と同じように私はメニューに視線を落としました。
ハンバーグ、唐揚げ、チキン南蛮、親子丼、カツ丼、ホルモン焼き……。カレーは正直ここでなくとも1階食堂で大丈夫なので今回はスルー。さて、どれにしたものでしょうか。せっかくの7万分の1という大事な食事をこの2階食堂で迎えられるのですから、色々と考えなければなりません。
「今日の日替わり定食はチキンカツ定食なんですね」
ふと、視線に入った日替わり定食を書いたホワイトボードが目に入って、気づけば私はそうつぶやいていました。特に先輩の反応を期待して言ったわけで無く、ただただ自問自答で確認しただけなのですが、先輩からの反応はありませんでした。
ウェイトレスの方が注文を取りに来ました。
「私は日替わり定食、サラダにはごまドレッシングで」
先輩はどこかぼんやりとしたまま、注文を口にしません。
「お客さま、どうされましたか」
丁寧な口調のウェイトレスにそう呼びかけられて、先輩は意識を戻したのでしょうか、慌てた口調で
「チキン南蛮定食」
とだけ、口にされました。
「ドレッシングは何にいたしましょうか」
「あー、ごまで」
という簡素なやり取りだけをして、ウェイトレスは下がって行きました。いつもどおりの光景と言えばいつもどおりの光景なのですが、この先輩はいつも寡黙で、多く語らず、少しミステリアスな雰囲気の、ちょっとだけ怖いイメージを持たれるようです。私にとっては、何を考えているのかわかりませんが、食べ物の趣味に関しては、私と嗜好の合う、素敵な尊敬すべき先輩だとも思っています。
注文してからしばらくの間、先輩と私はほとんど会話をせずに、ただただ座っているだけでした。
*男視点
気づけば無言であった。これはよろしくない。大変よろしくない。いったい何を話せば良いのか、私にはとんと分からない。
私はそこまで嗜まないが、私の腐れ縁の友人たるKが好む、とても口には出せないような、肌色の画像が出るゲームにこのような状況が出るとしたならば、きっと選択肢が3つか、もしくは時間制限込みで出るのであろう。だから現実世界というものは難しいのだ。ちくしょう。
「日替わり定食のお客様」
さしずめ、タイムオーバーだ。チキンカツ定食が運ばれてきた。
「あ、私です」
彼女が微笑んで応える。あ、その笑顔やはり可愛い。
ご飯と味噌汁、メインのチキンカツの皿にはキャベツ中心のサラダが添えられており、ごまドレッシングがかけられている。右手側奥には申し訳程度に2切れだけ乗っているしば漬けと、女子でも一口で行けそうなサイズの冷奴がそれぞれ小鉢で入っている。今日もボリュームは満点である。
お先にどうぞ、と手だけで合図を出すと、申し訳なさそうに箸を取って、両手を合わせて小さな声で
「いただきます」
と言った。私に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、いつもながら律儀だな、と思う。
まず彼女は味噌汁に手をつけた。どうも汁物を最初に一口手をつけるのが彼女のスタイルらしい。
などと、私が彼女の観察に余念なくのぞんでいたところ、ウェイトレスがチキン南蛮定食を運んできた。ウェイトレスはチキン南蛮定食です、とだけ言って、私の目の前にチキン南蛮定食を置いた。
「ご注文は全てでよろしいでしょうか」
という問いに彼女だけがはい、と言って、ウェイトレスは笑顔を作って、伝票を机の上に裏返しで置いて戻っていった。
ふと味噌汁が左側、ご飯が右側に配膳されていることに関してちょっと違和感を覚えて、何でこうなっているのだろう、と思いながら自分で入れ替えた。
「どうぞ、先輩」
入れ替え終わって、彼女の声に私が顔を上げると、使っていた醤油さしを私に差し出していた。
醤油さし真ん中のくびれのあたりを持っている彼女の手に、軽く触れたいと思いながら、いやいやそのような破廉恥なことをしてはいけないと、思い直し(この間およそ0.5秒くらいだろう)控えめに醤油差し、くびれから下側にむけて円筒型になっているところ、を掴んだ。
冷奴にかけようとそのまま冷奴の器の上で傾けてみると、下側を掴んでいるためか、思った以上に長い時間醤油を垂らしてしまった。
「あー、先輩!それはかけすぎですよ!ただでさえチキン南蛮定食は味が濃いんですから、気をつけてくださいね!」
見られていた。彼女はこういうところは物怖じせずに言ってくる。それも彼女のいいところなのだが。
醤油の海に浮かぶ冷奴の上に乗った黄色の生姜を軽く箸で溶きながら、中央から左右に2つに割る。その2つに割ったうちの右側を箸で口に運ぶ。うむ、醤油の味がする。
その思った通りの味に満足して私はチキン南蛮に手を伸ばすことにした。この食堂のチキン南蛮定食は彼女の言った通り、味が非常に濃い。
南蛮酢の味が強いわけではなく、チキン南蛮にかかったタルタルソースが非常に濃い味をしているのである。気づけば食べたくなる味なので、本当に何か中毒性でもあるのかもしれない。
チキン南蛮の鶏肉を1つ、2つ、と食べながら、みそ汁をすすり、私達は無言で黙々と食べていた。
勿論、私の視線はちらちらと彼女のほうに動いていたのであるが。
*後輩視点
今日の日替わり定食は当たりだと思いました。
この食堂での定食は基本的にやはり美味しいのですが、揚げられて時間が経ってしまった残念な唐揚げや、ちょっと焦げているハンバーグなどが出てくることがあります。
その点、本日の定食は、しっかりとチキンカツとしていて大変美味しいです。
トンカツも確かに美味しいのですが、だからといってチキンカツとどっちが上か、などと比べるつもりは全くありません。美味しいものを美味しくいただければ、私はただそれで幸せなのです。
少し話がそれました。
女性からしてみれば量が少々多いことで有名なこの食堂ですが、私にはちょうど良い、もしくはちょっと多いかな、程度の量ですので(もしかしたら私は大食漢なのでは、と思うことがしばしばです)大変美味しくチキンカツをかじり、みそ汁をすすり、米の甘みと一緒に幸せを噛み締めていたのです。
チキンカツを半分食べ、キャベツの千切りサラダを食べ終え、醤油を数滴垂らした冷奴を食べ終えたころでしょうか、私は先輩が見ていることに気づきました。
チキンカツ定食に夢中で忘れていて申し訳ない気持ちになりながら、とりあえず笑顔を見せることにしました。先輩もちょっと笑いながら残り少なくなった定食を食べていきます。
「そういえば先輩」
話したいことを思い出した私は先輩にそう切り出しました。
みそ汁を口にしようとしていた先輩は私の目を見ることで続きを促しました。
「最近は忙しいのですか」
先輩は少し困った顔をしながら、みそ汁を置き、うーんと考えこむような顔をしたあと、口を開きました。
「忙しいといえば忙しい、かな。そろそろ学会も考えていかないといけないからね」
「そうなんですか、やっぱり大変ですか」
「ああ、そうだね。最近教授が厳しくなってきたし辛いよ」
笑いながらそういう先輩からはあまり切羽詰まった感じは感じられませんでした。
「それなら、余裕があれば、で良いんですけど、部長に教えてもらった天ぷら屋さんがあるんですけど、今度一緒に行きませんか」
*男視点
私の思考が止まった。
これはデートのお誘いだろうか。もしかして、これがフラグというやつなのであろうか。
動揺を悟られないように、一呼吸だけ置いて応える。
「天ぷらか、良いね。大丈夫だよ。予定がないときだったら行こう」
声は裏返らなかった。よし、落ち着いた雰囲気で良い感じだろう。
「良かった、じゃあ来週の土曜日の昼間とかどうですか」
そう言って笑顔を見せてくれた彼女に、何も考えずに行ける、と返事をしそうになったが、バイトの予定と研究の進捗を考えないといけないことを思い出し、ぐっと堪える。
「ああ、スケジュール帳持ってきてないから分からないけど確認しておくけど、大丈夫だと思うよ。メールで連絡すれば良いかな」
「はい、お願いします」
輝かんばかりの笑顔に何があったとしても優先して行こう、と決意した。
その話をしたあとは特に何を話すでもなく、気づけばお互いの定食を食べきってしまっていた。
「ごちそうさまでした」
食事をはじめるときと終わるときの儀礼は大事なのです、と宣言していた彼女がそう言っているのをその姿で思い出した。
「お腹いっぱいです」
「俺もお腹いっぱいだよ」
「先輩はこれからも研究ですか」
「そうだね、君はどうするの」
「今日は次の時限の授業は休講で、その次は授業があるので、図書館ですかね」
じゃあ私も、と言いたくなるがそこはぐっと堪える。私はあくまで紳士だ。着いていくような真似は出来ない。
「じゃあ行こうか」
「はい」
私が伝票を取り、レジに向かう。それとなく彼女が荷物を持って用意するのを待った。
「お会計は」
レジを打つお姉さん(結構お年は召されている)のその声に、彼女が別で、と言いかけるのを遮って
「一緒で」
と答える。彼女が戸惑ったように私を見る。
「いやいや別で良いですよ。というより別にしましょ」
立っているから上目遣いである。そういう場合ではないのであるが、少しどきどきする。
「いやいや、俺のほうが先輩だから任せとけって」
私がそう言うと彼女は少し不満そうに唇を尖らせて、はい、と後ろに下がった。その唇を吸いたい。
「では、ご一緒で、お会計1017円になります。」
札入れを開いて唯一の1000円紙幣を差し出す。
続いて小銭入れを取り出そうとし、空っぽのポケットに気づいた。
そう言えば研究室のテーブルの上に置いたままにしていたことを思い出す。
やばい、とあたふたしていると、彼女が20円出した。
彼女はいたずらっぽく私に笑いかけ、私は力なく笑い返すことしか出来なかった。
どうやら私はしまらないらしい。
================
この作品はkyoukouの妄想が8割で構成されています。
2割は食べ物への描写です。つらい。
美味しいものを食べると幸せですよね。
最近コンビニ弁当食べまくってますけど。
食事を自発的に行うのが70年だとすると、人間というものはざっと75,000回もの膳に向かうこととなるのだ。私は現在25,000食近く、つまり人生においての食事の3分の1を消費していることとなる。
そのことを、後輩に諭されるまで、つまり、昔の私は正直、その場その場で、ただただ好きなものを、たらふく、貪り尽くし、空腹を満たすことだけが食事の楽しみであると、恥ずかしながら、そう思い、そう周りに断言していたのである。
そのことについては、今思い出しても、顔から火が、ガスバーナのように勢い良く、真っ青に顔中の血の気を引かせながら、噴き出るような思いなのであるが、そのようなことは今回の話にはあまり関係がない話である。
今回の話の舞台となるのは、私が先代の部長となった美食家倶楽部という我が大学が誇る裏サークルである。ちなみに、引退済みの私を含めて、現在の部員は3人しか居ない。
第一章:チキン南蛮定食( ¥545 )と日替わり定食( ¥472 )
*男視点
私は大学生である。理系である。四年生である。ただし、年齢は同級生よりも高い。
ゼミという名の、憎き教授とその腰巾着による公開処刑を、なんとか半殺しにされる程度にごまかそうと昨夜からずっと起きているため、我がまぶたの上と下は、初めて付き合った高校生カップルもかくならんや、とその仲を深め、私を夢へと叩き落とそうとしている。
そのかいあって、毎度毎度、どう料理してやろうか、といやらしい目をギラギラと輝かせているあの憎き奴らの地獄の鬼も裸足で逃げだすような口撃を、私が聞き流したり、反省したような体を取り繕ったりすることにより、なんとか今日も命からがら生き延びることが出来たのである。
正直なところ、早いうちに自室へと帰って眠ってしまいたい、という人間本来の、逆らい難き強い欲求に屈してしまっても良いのであるが、いかんせん、腹が減っている。空腹というものに対する食欲も、やはり逆らい難き欲求であり、その欲求に殉じることは、私のライフワークとも言うべきことであるのだ。
そういうことであるから、ゼミで頑張った自分へのご褒美とでも言うべきか、少しだけ今日の昼は豪勢な食事にしようと、2つある学生食堂のうち、高等なほうで食事を摂ろうとした。左手首に巻いた時計を見ると時刻は11時45分であり、もうしばらくすると講義の終わった奴らが大量になだれ込んでくる時間であった。
食堂のドアを開けると、少しお年を召されたお姉さま方々とアルバイトとして働いている女学生と思わしき人たちが出迎えてくれた。清く正しき理系エリートとしては、その笑顔の一つ一つに何かこみ上げるものを感じなくもないのだが、そんなことは気にした素振りを見せないよう努め、すでに8割ほど埋まっている食堂の、入ってすぐ左手2番目のテーブルに着席する。4人がけのテーブルの、勿論角(四人並ぶわけではないから当然であるが)に陣取り、一人で占拠できるというのは存分に気持ちがいいものだ。
学食とは思えないことに(と言っても学食を回ったり、といった殊勝な心がけはないのだが)注文を取りにくる形式のこの学食は定食メニューがかなり豊富である。今日は何を食べようか、机の上のメニューに視線を落としたときであった。
「先輩、ここ、相席いいですか」
顔を上げると、目の前には我が裏サークル、美食家倶楽部の3分の1、後輩が立っていた。記憶違いでなければ二回生であったはずである。
首肯だけで、是の意を伝えると、後輩は明らかにホッとした表情で、私の向かいの椅子を引き腰掛けた。
「今日の日替わり定食はチキンカツ定食なんですね」
メニューをじっと見つめながら、誰に言うでもなく、後輩は口にする。
くりくりした目が印象的で、何事にも一生懸命な彼女について、私は正直、好意を抱いている。と言っても、恋仲になりたい、と思っているわけでもなく、いや、なりたくないといったら嘘なのであるが、清く正しい理系学生としては、どういう風にアタックをすればいいのか、どこまでやれば、恋仲として楽しく過ごすことが出来るのか、その距離感を測ることが大切である、と真剣に考えているのである。適正な距離感さえわかれば、あとはそのまま何とかなるだろう、と思っている。断固として言うが、へたれているわけではない。
メニューを行ったり来たりする彼女を見つめていていたので、ウェイトレスのお姉さまが来ていることに気づかず、慌てた代償として、残念ながら、何も考えずにチキン南蛮定食、と口にしてしまっていたのだった。
*後輩視点
その日、私は二回生になって、前期の授業申請のために行ったコンピュータルームにいたのです。三回目とはいえ、操作自体はまだ良く分からないのですが、前もって授業を決めていたこともあり、案外すんなりと申請自体は終わりました。
時計を見ると11時40分、昼食を食べたい時間となっています。今日はいつもより早い時間に終われたので、久しぶりに2階食堂に行けるのではないでしょうか、という考えがふっと私の中に浮かんできたのです。
いつも講義が終わるのはおよそ12時くらいで、そのときにはすでに2階食堂は憎らしくも大盛況と言わざるを得ない状況で、美味しい食事に目がない私と致しましては、いつもいつも悔しく奥歯を軋ませていたのですが、久しぶりに、本当に久しぶりに、2階食堂に行こうと、足取り軽く向かったのでした。
すでに結構な人数が入っている2階食堂では、4人がけのテーブルのみを置いていますので、空いているときでないと、私自身としては一人で行きにくいものです。私が授業申請の為に早く終わったということは、私同様に早く終わった学生らが大挙して押し寄せるであろうことを、思慮浅きことに、予想出来ていなかったのです。ほとんどの席が埋まっている中で、ああ、なんとか座れそうなところはないだろうか、と探したところ、見覚えのある顔が一人でいるのを見つけたのです。
「先輩、ここ、相席いいですか」
メニューに目を向けていた先輩は、髪をぼさぼさに生やした姿で気だるそうな目で私を見ました。どうやら、また徹夜明けのようです。先輩は首を縦に振りました。どうやら今日も一人のようです。正直助かりました。
先輩の真ん前の椅子を引き、横の椅子に持っていたトートバッグを置きました。先輩と同じように私はメニューに視線を落としました。
ハンバーグ、唐揚げ、チキン南蛮、親子丼、カツ丼、ホルモン焼き……。カレーは正直ここでなくとも1階食堂で大丈夫なので今回はスルー。さて、どれにしたものでしょうか。せっかくの7万分の1という大事な食事をこの2階食堂で迎えられるのですから、色々と考えなければなりません。
「今日の日替わり定食はチキンカツ定食なんですね」
ふと、視線に入った日替わり定食を書いたホワイトボードが目に入って、気づけば私はそうつぶやいていました。特に先輩の反応を期待して言ったわけで無く、ただただ自問自答で確認しただけなのですが、先輩からの反応はありませんでした。
ウェイトレスの方が注文を取りに来ました。
「私は日替わり定食、サラダにはごまドレッシングで」
先輩はどこかぼんやりとしたまま、注文を口にしません。
「お客さま、どうされましたか」
丁寧な口調のウェイトレスにそう呼びかけられて、先輩は意識を戻したのでしょうか、慌てた口調で
「チキン南蛮定食」
とだけ、口にされました。
「ドレッシングは何にいたしましょうか」
「あー、ごまで」
という簡素なやり取りだけをして、ウェイトレスは下がって行きました。いつもどおりの光景と言えばいつもどおりの光景なのですが、この先輩はいつも寡黙で、多く語らず、少しミステリアスな雰囲気の、ちょっとだけ怖いイメージを持たれるようです。私にとっては、何を考えているのかわかりませんが、食べ物の趣味に関しては、私と嗜好の合う、素敵な尊敬すべき先輩だとも思っています。
注文してからしばらくの間、先輩と私はほとんど会話をせずに、ただただ座っているだけでした。
*男視点
気づけば無言であった。これはよろしくない。大変よろしくない。いったい何を話せば良いのか、私にはとんと分からない。
私はそこまで嗜まないが、私の腐れ縁の友人たるKが好む、とても口には出せないような、肌色の画像が出るゲームにこのような状況が出るとしたならば、きっと選択肢が3つか、もしくは時間制限込みで出るのであろう。だから現実世界というものは難しいのだ。ちくしょう。
「日替わり定食のお客様」
さしずめ、タイムオーバーだ。チキンカツ定食が運ばれてきた。
「あ、私です」
彼女が微笑んで応える。あ、その笑顔やはり可愛い。
ご飯と味噌汁、メインのチキンカツの皿にはキャベツ中心のサラダが添えられており、ごまドレッシングがかけられている。右手側奥には申し訳程度に2切れだけ乗っているしば漬けと、女子でも一口で行けそうなサイズの冷奴がそれぞれ小鉢で入っている。今日もボリュームは満点である。
お先にどうぞ、と手だけで合図を出すと、申し訳なさそうに箸を取って、両手を合わせて小さな声で
「いただきます」
と言った。私に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、いつもながら律儀だな、と思う。
まず彼女は味噌汁に手をつけた。どうも汁物を最初に一口手をつけるのが彼女のスタイルらしい。
などと、私が彼女の観察に余念なくのぞんでいたところ、ウェイトレスがチキン南蛮定食を運んできた。ウェイトレスはチキン南蛮定食です、とだけ言って、私の目の前にチキン南蛮定食を置いた。
「ご注文は全てでよろしいでしょうか」
という問いに彼女だけがはい、と言って、ウェイトレスは笑顔を作って、伝票を机の上に裏返しで置いて戻っていった。
ふと味噌汁が左側、ご飯が右側に配膳されていることに関してちょっと違和感を覚えて、何でこうなっているのだろう、と思いながら自分で入れ替えた。
「どうぞ、先輩」
入れ替え終わって、彼女の声に私が顔を上げると、使っていた醤油さしを私に差し出していた。
醤油さし真ん中のくびれのあたりを持っている彼女の手に、軽く触れたいと思いながら、いやいやそのような破廉恥なことをしてはいけないと、思い直し(この間およそ0.5秒くらいだろう)控えめに醤油差し、くびれから下側にむけて円筒型になっているところ、を掴んだ。
冷奴にかけようとそのまま冷奴の器の上で傾けてみると、下側を掴んでいるためか、思った以上に長い時間醤油を垂らしてしまった。
「あー、先輩!それはかけすぎですよ!ただでさえチキン南蛮定食は味が濃いんですから、気をつけてくださいね!」
見られていた。彼女はこういうところは物怖じせずに言ってくる。それも彼女のいいところなのだが。
醤油の海に浮かぶ冷奴の上に乗った黄色の生姜を軽く箸で溶きながら、中央から左右に2つに割る。その2つに割ったうちの右側を箸で口に運ぶ。うむ、醤油の味がする。
その思った通りの味に満足して私はチキン南蛮に手を伸ばすことにした。この食堂のチキン南蛮定食は彼女の言った通り、味が非常に濃い。
南蛮酢の味が強いわけではなく、チキン南蛮にかかったタルタルソースが非常に濃い味をしているのである。気づけば食べたくなる味なので、本当に何か中毒性でもあるのかもしれない。
チキン南蛮の鶏肉を1つ、2つ、と食べながら、みそ汁をすすり、私達は無言で黙々と食べていた。
勿論、私の視線はちらちらと彼女のほうに動いていたのであるが。
*後輩視点
今日の日替わり定食は当たりだと思いました。
この食堂での定食は基本的にやはり美味しいのですが、揚げられて時間が経ってしまった残念な唐揚げや、ちょっと焦げているハンバーグなどが出てくることがあります。
その点、本日の定食は、しっかりとチキンカツとしていて大変美味しいです。
トンカツも確かに美味しいのですが、だからといってチキンカツとどっちが上か、などと比べるつもりは全くありません。美味しいものを美味しくいただければ、私はただそれで幸せなのです。
少し話がそれました。
女性からしてみれば量が少々多いことで有名なこの食堂ですが、私にはちょうど良い、もしくはちょっと多いかな、程度の量ですので(もしかしたら私は大食漢なのでは、と思うことがしばしばです)大変美味しくチキンカツをかじり、みそ汁をすすり、米の甘みと一緒に幸せを噛み締めていたのです。
チキンカツを半分食べ、キャベツの千切りサラダを食べ終え、醤油を数滴垂らした冷奴を食べ終えたころでしょうか、私は先輩が見ていることに気づきました。
チキンカツ定食に夢中で忘れていて申し訳ない気持ちになりながら、とりあえず笑顔を見せることにしました。先輩もちょっと笑いながら残り少なくなった定食を食べていきます。
「そういえば先輩」
話したいことを思い出した私は先輩にそう切り出しました。
みそ汁を口にしようとしていた先輩は私の目を見ることで続きを促しました。
「最近は忙しいのですか」
先輩は少し困った顔をしながら、みそ汁を置き、うーんと考えこむような顔をしたあと、口を開きました。
「忙しいといえば忙しい、かな。そろそろ学会も考えていかないといけないからね」
「そうなんですか、やっぱり大変ですか」
「ああ、そうだね。最近教授が厳しくなってきたし辛いよ」
笑いながらそういう先輩からはあまり切羽詰まった感じは感じられませんでした。
「それなら、余裕があれば、で良いんですけど、部長に教えてもらった天ぷら屋さんがあるんですけど、今度一緒に行きませんか」
*男視点
私の思考が止まった。
これはデートのお誘いだろうか。もしかして、これがフラグというやつなのであろうか。
動揺を悟られないように、一呼吸だけ置いて応える。
「天ぷらか、良いね。大丈夫だよ。予定がないときだったら行こう」
声は裏返らなかった。よし、落ち着いた雰囲気で良い感じだろう。
「良かった、じゃあ来週の土曜日の昼間とかどうですか」
そう言って笑顔を見せてくれた彼女に、何も考えずに行ける、と返事をしそうになったが、バイトの予定と研究の進捗を考えないといけないことを思い出し、ぐっと堪える。
「ああ、スケジュール帳持ってきてないから分からないけど確認しておくけど、大丈夫だと思うよ。メールで連絡すれば良いかな」
「はい、お願いします」
輝かんばかりの笑顔に何があったとしても優先して行こう、と決意した。
その話をしたあとは特に何を話すでもなく、気づけばお互いの定食を食べきってしまっていた。
「ごちそうさまでした」
食事をはじめるときと終わるときの儀礼は大事なのです、と宣言していた彼女がそう言っているのをその姿で思い出した。
「お腹いっぱいです」
「俺もお腹いっぱいだよ」
「先輩はこれからも研究ですか」
「そうだね、君はどうするの」
「今日は次の時限の授業は休講で、その次は授業があるので、図書館ですかね」
じゃあ私も、と言いたくなるがそこはぐっと堪える。私はあくまで紳士だ。着いていくような真似は出来ない。
「じゃあ行こうか」
「はい」
私が伝票を取り、レジに向かう。それとなく彼女が荷物を持って用意するのを待った。
「お会計は」
レジを打つお姉さん(結構お年は召されている)のその声に、彼女が別で、と言いかけるのを遮って
「一緒で」
と答える。彼女が戸惑ったように私を見る。
「いやいや別で良いですよ。というより別にしましょ」
立っているから上目遣いである。そういう場合ではないのであるが、少しどきどきする。
「いやいや、俺のほうが先輩だから任せとけって」
私がそう言うと彼女は少し不満そうに唇を尖らせて、はい、と後ろに下がった。その唇を吸いたい。
「では、ご一緒で、お会計1017円になります。」
札入れを開いて唯一の1000円紙幣を差し出す。
続いて小銭入れを取り出そうとし、空っぽのポケットに気づいた。
そう言えば研究室のテーブルの上に置いたままにしていたことを思い出す。
やばい、とあたふたしていると、彼女が20円出した。
彼女はいたずらっぽく私に笑いかけ、私は力なく笑い返すことしか出来なかった。
どうやら私はしまらないらしい。
================
この作品はkyoukouの妄想が8割で構成されています。
2割は食べ物への描写です。つらい。
美味しいものを食べると幸せですよね。
最近コンビニ弁当食べまくってますけど。
by kyoukou_hac
| 2012-10-09 11:05
| グルメクラブ